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経営のヒント
2025.12.30
ブラザー工業株式会社
取締役会長
小池利和氏

小池 利和 氏プロフィール:1955年愛知県生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業後、79年ブラザー工業に入社。入社3年目から23年間アメリカに駐在し、プリンター事業の拡大に貢献。92年、米国法人取締役、2000年米国法人の社長に就任。05年に帰国し、07年ブラザー工業の代表取締役社長。18年代表取締役会長、22年から取締役会長。
ブラザー工業株式会社
設立:1934年1月15日(創業 1908年)/資本金:19,209百万円(2025年3月31日現在)/従業員数:42,801人(2025年3月31日現在 連結)/事業内容:プリンター・複合機、ラベルライター、産業用印刷機器、工作機械、工業用・家庭用ミシン、ギアモータ・歯車、通信カラオケ機器など多様な分野で企画・開発・製造を行う。世界40以上の国と地域に生産拠点と販売拠点を設け、海外の売上比率は全体の8割を超えるグローバル企業。
ミシンの修理業からグローバル企業へ、数度の経営危機を乗り越えながら転身を遂げたブラザー工業。取締役会長の小池利和氏に、新規マーケットの開拓、社長時代の経営戦略、今後の人材育成について聞いた。
米国に渡り現地に合った 販売モデルを確立
大谷 ブラザー工業(以下ブラザー)というと、昭和世代にはミシンの会社の印象が強いですが、今はプリンティング機器を主力とするグローバル企業へと成長しています。
小池 創業者兄弟がミシンの量産化に成功し、輸入産業から輸出産業へと変え、戦後には編み機をはじめ、家電、楽器やタイプライターと多角化を進めていきます。戦後、日本人の生活がまだ豊かでないころは、カタログを使った訪問販売による積立販売や割賦販売のモデルがうまく機能しました。しかし1970年代後半以降、量販店が台頭し始め、それまでうまくいっていた訪問販売のビジネスモデルが成り立たなくなっていきます。私が入社したのは、ちょうどそのころでした。
大谷 入社3年目の1981年には、アメリカに赴任します。
小池 ブラザーは風通しが良く雰囲気の良い会社でしたが、国内販売には暗い影が差し始めており、私自身もひと皮むけるには日本にいたままではダメだと感じ、挑戦することにしました。

米国駐在時の小池氏
大谷 アメリカに渡って、どのようなことに取り組まれたのですか。
小池 プリンターのセールスです。ブラザーは1970年ごろからアメリカのベンチャー企業と共同開発した、ドットマトリクスプリンターを売っていましたが、販売テリトリーの制約のために欧米での販売は制限されていました。その間にアップルなどから発売されたパソコンがアメリカの市場に普及するようになり、それにつなげる他社の廉価なドットプリンターがよく売れるようになっていたのです。
そこで私たちはタイプライターの技術を活かした、低価格と高い印字品質が売りのデイジーホイールプリンター(写真左)でパソコン用のプリンター市場に参入します。このプリンターが予想以上にヒットし、電子タイプライターと合わせて4、5年は順調な売れ行きでした。ところが、競合他社がノンインパクトのレーザープリンターやインクジェットプリンターを発売してきます。今度はこれに対応するため、ベンチャー企業を訪ねたり、日本の開発陣に技術開発を提案したり、さまざまなことをしました。
一方、ブラザー全体では、1985年のプラザ合意以降の円高、国内における訪問販売の崩壊などにより、経営状況はどんどん厳しくなります。
大谷 アメリカではどのように売り上げを伸ばしていったのでしょう。
小池 最初にヒットに恵まれたのは、テープに名前などを印字できるラベルライターですね。80年代の終わりごろです。また、92年には機能は維持しながらも通常の市場価格のほぼ半値をつけたファクスを発売しました。月に5000台売れたら御の字と思っていましたが、5万台ペースで販売することができました。
このころから大切にし始めたのは、量販店とのつき合いでしたね。当時、オフィススーパーストア(OSS)と呼ばれるオフィス用品専門の量販店3社が急成長をしており、ピーク時には全米で4000店以上の店舗を持っていました。これらの量販店と良い関係を築き、ブラザーの商品をお店の棚に置いてもらうのが最大のミッションでした。週末に各家庭に配られる量販店のチラシに載せてもらい、商品の良さを知ってもらおうと必死でした。
商品がよく売れるようになると、量販店から「次はこういうものを出したら」とアイデアをもらえるので、それを日本に橋渡しをしながら商品開発につなげていきました。
大谷 まさにアメリカで新しいマーケットを開拓したのですね。
小池 その後、ブラザーが本格的に回復してきたのは、自社エンジンのレーザープリンターやインクジェットプリンターを開発し、それらを複合機へと展開できた90年代後半です。現在、通信・プリンティング機器などを扱うプリンティング・アンド・ソリューションズ事業は、売上収益の6割を占める主力事業に成長しました。

アメリカで最初に販売を手がけたプリンター「HR-1」
ビジネスパートナーとの協業と量産化・合理化で危機を乗り切る
大谷 危機を乗り越えることができた理由をどのようにお考えですか。
小池 ひとつは先ほども申しましたように、OSSなどの販売パートナーを開拓し、彼らの成長とともにブラザーも成長できたということです。
ふたつめはマーケットでトップシェアとなり、たくさんの商品をグローバルにお届けする形での大量生産、大量販売の追求です。ブラザーにはもともと自前主義という発想があり、多くの部品を自社で製造していましたが、コストを下げるために内製はやめて取引先から買うことにしました。情報機器の業界で勝ち残るには、売り上げの大きさ、つまり数の勝負になるので、生産体制そのものを変える必要がありました。
そしてもうひとつ、トナーやインク、ラベルやテープなどの消耗品の販売もたいへん重要です。多くのお客さまに製品本体を満足して使っていただくことで消耗品の販売が拡大し、収益が安定したのです。
大谷 その後は順調でしたか。
小池 いえ、そうでもありません。2000年にアメリカ法人の社長に就任した当時は、米州の連結決算が3年ほど続けて赤字でした。売掛金の回収や過剰在庫の対処、物流の合理化などに奔走し、北米から中南米と、すべての米州ビジネスを立て直し、窮地を乗り切りました。
大谷 実際には、大胆な投資や合理化も実施されたわけですね。
小池 テネシー州に巨大な倉庫をつくり、製造・物流・サービスなどのあらゆる機能を一か所に集約したりしました。また、私は直接携わってはいませんが、国内では99年に、設立時から独立運営していたブラザー販売を吸収合併し、多くの販売員を整理しています。事業は人があって成り立つものです。ブラザーが今あるのは、過去に犠牲を払い、つらい思いをされた方々の存在があったからで、そのことを忘れてはなりません。
M&Aでも大事にしてきたパートナーとの相乗効果
大谷 日本に帰国されたのは2005年、赴任から23年後です。
小池 当時の日本のブラザーは、アメリカでのビジネスモデルを逆輸入する形で安定してきていました。帰国後はプリンティング事業の責任者などを経て、07年にブラザー工業の社長に就任しました。その直後にリーマン・ショックが起こります。
大谷 当時、生産や販売の縮小も考えたのですか。
小池 周りの同業他社は生産の縮小や工場の閉鎖などしていましたが、当社はその路線をとりませんでした。ブラザーは従来からSOHOのお客さまに主眼を置き、プリンター、ファクス、コピーなどの機能を備えながら、価格が手ごろでコンパクトな商品を提供してきました。01年に起こったアメリカの同時多発テロ以降は、自宅や小さなオフィスで仕事をする人が増え、ブラザーの製品がよく選ばれたのです。その経験から、リーマン・ショック時も同様の傾向が起こるだろうと踏みました。
こうした判断は、決して勘と経験で下したものではありません。アメリカ駐在時は、主な量販店の販売データを欠かさずチェックし、数字をもとに需要に応じて対処し続けてきました。08年当時も売れ行き自体はむしろ堅調で、生産を減らす理由は見当たらなかったのです。結果的に判断は間違っていませんでした。
大谷 M&Aにも、積極的に取り組んできました。
小池 その後、オフィス向けプリンティング事業は成熟期を迎え、産業用領域の成長を中心とした事業ポートフォリオの強化が必要だと感じるようになりました。ただ、新しいことを始めるにも、自前でやるには限界がある。これまで培ってきたものづくりの経験や技術でシナジーがあり、将来的には販売チャネルも統合できる分野のパートナーを見つけ、手を組むことが重要だと考えました。
15年に行ったドミノ社の買収は、民生用で培ったインクジェットの技術を産業用に活かすという発想でした。
大谷 まさに技術のシナジーが活かされたということですね。
小池 さらにいえば、ドミノ事業も売り上げの半分以上は消耗品やサービスが占めています。商品を売るだけでは需要が落ちた途端に損益に響きますが、消耗品やサービスと一体化してお客様にお届けすることによって、ビジネスに継続性が生まれるのです。
ただし、市場の未来を見据えながらお客さまの期待に応え続けるという当たり前のことを怠っていると、ダメージがボディブローのように襲ってきます。常に新しいことを続けるのが、大事ではないでしょうか。
グローバル時代にこそ視座を高める経験を
大谷 小池さん自身は、日本の製造業の今後をどうお考えですか。
小池 人口減少や高齢化による労働人口の縮小は明らかですから、徹底的な自動化を含めたものづくりを考えていかないといけません。加えて、ビジネス成長を継続的に成し遂げるためにはグローバルでのさらなる成長は避けられません。組織におけるダイバーシティは大変重要なテーマで、日本では多様さに触れながら働き、常にアイデアを求めビジネスに活かせる人材が必要と考えています。
大谷 人材育成で小池さんが取り組まれていることはありますか。
小池 挙げるとすれば「テリー'sチャレンジ塾」でしょうか。若手従業員を中心に、私が積んださまざまな経験を伝えるのに加え、塾生が自ら取り組みたいテーマを設定し、それを全役員の前で発表して実行していくというプログラムです。
大谷 小池さんは具体的に何をされるのですか。
小池 期間中に講義を3回、加えて全塾生との1on1も行います。ひとり1回30分、最低3回は話を聞きますね。指摘が厳しくなることもありますが、あくまでも成長を期待してのこと。真剣勝負です。また塾生は、卒業後もそれぞれの同期生の間でコミュニケーションを継続的に取りながら研鑽し合っているようです。
ブラザーは私の入社時とは比べものにならないくらい、組織が成長しました。会社が大きくなると部門の壁、組織の壁がどうしてもできてしまいます。若い皆さんにはいろいろな人と触れ合い、交流することで部門を越えた社内外のネットワークを広げ、成長をしていってもらいたいと思っています。

本社併設の展示館にて、JMAC代表取締役社長・大谷羊平と
※本稿はJMAC発行の『Business Insights』80号からの転載です。
※社名、役職名などは発行当時のものです。
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