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「情熱」がエンジン!立ち止まらず、チャレンジし続ける
〜グローバルビジネスを成功に導くブラザーの"飛び込む力"〜

ブラザー工業株式会社
代表取締役社長 小池 利和 氏

1908年(明治41年)に創業したブラザーグループ(以下、ブラザー)は、戦後のミシントップメーカー時代を経て、現在では海外比率8割の「情報通信機器のブラザー」としてグローバルな地位を確立した。ブラザーの社長・小池利和氏は、入社3年目の1981年、プリンターの勃興期に単身アメリカへ赴任し、ブラザーのプリンティング事業を成功へと導いた立役者だ。今でも社内では「テリーさん」とアメリカ駐在時代についたニックネームで呼ばれている。「トップになる」ことを志して入社した小池氏が、23年間アメリカで奮闘して得てきたビジネスマインドと成功の秘訣、そして次世代に語り継ぎたいことなどをお聞きした。

「人と違うキャリアを積みたい」入社3年目に志願してアメリカへ

 鈴木:小池さんはアメリカでの仕事が23年間と非常に長かったとお聞きしています。入社3年目に志願してアメリカへ行かれたそうですが、その理由や想いをお聞かせください。

 小池:アメリカ行きを志願した一番の理由は、「人と違うキャリアを積みたかったから」です。ブラザーは今もそうなのですが、当時から家庭的な雰囲気で居心地が良く、仕事をする環境としては最高でした。しかし、私はもともとトップになりたいと思って入社していたので、3年目を迎えるころから「このまま安閑と過ごしていても年功序列の壁は超えられないし、将来的に会社をマネジメントするためには、何か人と違うことに挑戦してキャリアを積まないといけないな」と思い始めていました。

 入社後、毎晩のように部長や課長と一緒に飲み歩いて「会社はどうあるべきか」とか「ミシンでこのまま生き延びるのは結構しんどいね」といった話を聞いていたので、入社2年目のころには会社全体の状況がなんとなくわかっていたということも大きかったですね。

 80年代に入ると、ブラザーは事業の主軸をミシンから情報機器へと移行し、1984年のロサンゼルスオリンピックではタイプライターの公式サプライヤーになりました。そのとき、いつも一緒に飲んでいる先輩方から「電子タイプライターを改造してつくったプリンターがあるから、小池君がこれをアメリカで売ってみないか」と言われたのです。当時、アメリカではパソコンが世に出始めたころで、ブラザーはそれに接続して使うプリンターを売り出そうとしていました。しかし、アメリカの現地法人から「プリンターなんて売れるわけがない」と販売を断られたので、「それじゃあ日本から誰か行かせよう」となったのです。

 アメリカなんて学生時代に1回遊びに行っただけでマーケットも何も知らなかったのですが、人と違うキャリアを積める大きなチャンスでもありました。ですから、「たとえ失敗しても人生の肥やしになるし、思い切ってチャレンジしてみよう」と志願したのです。

「Who are you?」から一転 プリンターの大ヒットでヒーローに

 鈴木:小池さんはブラザーがアメリカでのプリンタービジネスをこれから始めようというときに、その担い手として渡米されました。渡米後はどのようにビジネスをスタートし、軌道に乗せていったのでしょうか

 小池:アメリカ行きを志願した私ですが、実は英語が苦手でした。しばらく英語の勉強をしようと思っていたら、会社から「現地でいろいろ経験したほうが早いから、とにかく行け!」と言われ、すぐに当面の着替えが入った荷物とプリンターのサンプル1個を抱え、アメリカ・ロサンゼルスへと渡りました。26歳になりたての、1981年10月31日のことです。

 空港からはレンタカーを借りて、まずはあいさつがてら現地法人のロサンゼルス支社に立ち寄りました。彼らは「日本から精鋭が来るぞ」と聞かされていたようですが、私の顔を見るなり「誰だ、この若造は?

 本当に大丈夫か?」と一時騒然となりましたね(笑)。支社を出てからはその足でオフィス兼住居になる家を探して、1階にファクスやコピー機を入れて2階で寝る、今でいうSOHOの形をとりました。英語力もプリンタービジネスの知識もない、頼れるのは自分だけ、というまさにゼロからのスタートでした。

 それからは毎日毎日、拙い英語でとにかくたくさんの会社に電話をかけて、プリンターを売り込みました。半年後にはさまざまなところから引き合いがくるようになり、1台10万円もするのに月に3000〜5000台も売れて、売上げも月に3〜5億円にものぼりました。こうして82〜84年の間、世界中で爆発的に売れ続けたのです。

 この大ヒットの理由は、価格と機能のバランスの良さにありました。ブラザーのプリンターは電子タイプライターをベースに開発されたことから、投資額も少なく他社より安価で提供できたこと、当時のパソコンのアプリケーションはワープロが主流だったため、タイプライターの印字メカニズムが「キレイに印字したい」という需要に偶然にもピタッとはまったことが功を奏しました。

 ですから、いつも正直に「ヒットしたのはたまたま運が良かっただけ」と言っていたのですが、知らない間に周りから「これはすごい!

 プリンターのことなら彼に聞け!」と言われるようになってしまい、1985年からはニュージャージーで商品開発に携わることになりました。

苦境を"革新のチャンス"に変えるブラザーの情熱とチャレンジ精神

 鈴木:今までのお話を聞くと、渡米後にプリンターが大ヒットして、順風満帆にアメリカ生活を送っていた印象を受けますが、やはりたいへんなご苦労もあったのではないでしょうか。

 小池:そうですね、商品が売れなくなってきた80年代後半からの数年間はとにかく苦しかったですね。価格競争の激化と、市場で台頭し始めたレーザーやインクジェットのプリンターを自社開発する技術がまだなく、商品のラインナップが少ないことが原因でした。

 「売れる自社開発製品をつくること」が自分のミッションだと思っていた私は、すでに自社開発して売上げ実績のあるファクスをその足掛かりにしようと考え、懇意にしていた販売店バイヤーたちに「どうしたらもっと売れるだろうか」とアドバイスを求めました。すると、「競合他社の半額、399ドルのファクスだったら売れると思う」といった提案をしてくれるところが続々と現れたのです。

 「399ドルのファクスなら売れる」と見込んだ私は、日本の技術者たちに開発を依頼しました。これまでの半額のものをつくるのは非常に難しいことだと承知していましたが、彼らは快諾し、たいへんな努力を重ねて開発してくれました。続いてレーザーとインクジェットプリンターの自社開発にも成功すると、次はレーザーの複合機、その次はインクジェットの複合機、と毎年新しいラインナップを出せるようになり、売上げも2割3割アップしていきました。

 こうしてアメリカのビジネスは90年代前半から後半にかけてものすごいスピードで成長を遂げ、工場でつくり切れないほどのオーダーが一夜にして飛び込んでくるようになりました。しかし、そのときハタと気がついたのです。「この拡大するビジネスの成長を支えるインフラがない」と。周囲にはインフラ整備に詳しい人がいなかったので、ここでも「俺がやるしかない。未知の分野だが、思い切ってチャレンジしてみよう」と思い立ちました。

 それからは日系米系問わずたくさんの会社を訪問して「倉庫のオペレーションはどうやっているのか」「コールセンターはどのようにして運営しているのか」と聞いたり実際に現場を見せてもらったりして、急ピッチで勉強を進めていきました。そして、テネシーに100エーカー(約40ヘクタール)の土地を購入して10,000平方フィート(930平方メートル)の巨大倉庫をつくり、その中に工場、研究開発所、コールセンターなどを集中して配置して、IT基幹業務システムも導入しました。こうして1998年には巨大物流拠点を完成させました。6カ所にあった倉庫が1カ所にまとまったので、「1つの倉庫から1台のトラックで商品を運べばよくなった」とたいへん好評でした。

 こうして情報通信機器ビジネスは大きく成長し、米国駐在中に売上げは25倍になりました。厳しい時代を経て、変革を重ねながらここまでビジネスを成長させることができたのは、長年培ってきたお客様や販売代理店との信頼関係、そしてブラザーのものづくりへの情熱があったからにほかなりません。今の私を支えているのは、トライ&エラーを繰り返しながら、あらゆる業務を一気通貫で経験することのできた、この23年間だと感じています。

「オレが頑張らなきゃいかん」初志を貫きブラザーのトップに

 鈴木:小池さんは2005年にアメリカから帰国し、2007年にブラザーの社長に就任されました。1908年に創業した歴史ある企業のトップになったときのお気持ちや決意などをお聞かせください。

 小池:まず思ったのは、「人間の運命って不思議なものだな」ということです。アメリカで一旗あげようと思って行ったら、帰ってくるなと言われたのでそのままずっといて、1999年にはアメリカの社長になれたので、「まあ、このまま人生終わるのもありかな」と思っていました。日本へ戻ってこないかと声がかかったのは、外から日本を見て「さまざまな課題があるな」と感じていたときでもあり、人生としては結構大きな転機でしたね。家族をアメリカに残してきたことも、自分にとっては大きな決断でした。

 その2年後に社長就任の打診を受けたときには、あれこれと迷いましたが、最後に自分を押したのは「オレが頑張らなきゃいかん」という気持ちでした。もともとトップになりたくて会社に入ったわけですし、「自分が社長として頑張ることを期待されているんだ」と勝手に思うことでモチベーションを上げて続けていくのが、私の基本的なやり方なのです。

 ブラザーは創業108年という長い歴史の中で、幾度となく困難に直面しましたが、従業員同士が知恵を出し合い、チャレンジを続けながらそれを打開してきました。このDNAを伝承し、次世代の人材を育てていくことが私の使命だと考えています。そこで人材育成プログラム「テリーのチャレンジ塾」を社内で立ち上げ、自分のこれまでの経験を少しずつ伝えていくようにしています。そこでは、「自分が与えられた仕事だけではなく、視野を広げて部門を超えた交流をして、さまざまな新しいことにチャレンジしていきなさい」といつも話しています。とくに「圧倒的な当事者意識を持つこと」「お節介をすること」の2つは徹底的に言い続けています。

テーマは「変革への挑戦」 構造改革で持続的成長をねらう

 鈴木:ブラザーはこれまで、時代や環境の変化に対応してミシン製造からファクス、プリンターなど情報通信分野へと事業の構造改革を絶えず行ってきました。今後のブラザーの方向性や目指したい姿についてお聞かせください。

 小池:現在、ブラザーの売上げ・利益はプリンティング事業に支えられていますが、近頃はモバイル端末の普及でプリンターや複合機で印刷する機会が減ってきています。そこで、"成長のエンジン"を今後の成長が見込まれるBtoB領域にシフトして会社の形を変えていくことを決め、2016年度からの3ヵ年中期戦略では「変革への挑戦」をテーマに構造改革に挑戦しています。2015年にはこの布石として、英国の産業印刷機メーカー、ドミノプリンティングサイエンスを1,900億円で買収し、技術者集団を迎え入れました。

 構造改革では、事業ごと一気にリストラするのが合理的かつ迅速ではありますが、できればその手法はとりたくないと思っています。日本的な発想なのでしょうが、ある程度時間がかかることを想定したうえで、「混合」の形をとっています。その中で、限られたリソースを最大活用し、徹底的に効率化することで新たな顧客価値を創出していきたいと考えています。

「情熱」と「責任感」を持ち続け"人生を賭ける覚悟"で臨む

 鈴木:最後に次世代を担うトップや経営幹部の方々へのメッセージをお願いします。

 小池:経営者にとって一番大切なのは、「心折れることなく、情熱と責任感を持ち続けること」だと思っています。リーダーである以上、大勢の従業員が自分の顔を見ているわけですから、常に明るく楽しく元気にニコニコしていなくてはいけない、という面での努力は必要だと思いますね。

 また、今はグローバル化が急速に進み、ビジネス環境がますます複雑になってきていますから、「何百倍ものデータを自分の頭で必ずダイジェストし、常に迅速に正しいと思われる判断をし続けること」が重要な要素です。とくに、ブラザーは82パーセントが海外ビジネスですから、日ごろからすぐに現地の細かい情報をつかめるだけのネットワークを張っておいて、迅速な判断ができるようにしておかなければなりません。

 要するに、経営者とは「強靭な体力と精神力」と「飽くなき情熱と責任感」を持ち続けなければならない、ということです。トップというものは、決して生易しい仕事ではありません。次世代のトップを担う方たちには、そういう気概を持って臨んでいただきたいと思います。

【対談を終えて】鈴木亨のひとこと

小池社長の印象はとにかくポジティブでした。高い志を持ち、有言実行してきたという自負と自信が感じられました。また、アメリカで多くの人脈を築いてこられたこともあり、人を惹きつけるフランクさがとてもさわやかでした。仕事に情熱を持ち、ブラザーを牽引していく強い想いが溢れていました。大学卒業時点で社長になるという志を持ち、その想いを初志貫徹なさったことに脱帽です。

※本稿はJMAC発行の『Business Insights』Vol.63からの転載です。
※社名、役職名などは発行当時のものです。

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